2023-04-19

ブランドの背景にある物語:コカ・コーラ - RK Dewan & Co

コカ・コーラは無慈悲で破壊的な力を持つジャガーノートである。

 ブランドは、単なる名前やロゴではなく長い時間をかけて築かれたストーリーとレガシーが加わったものだ。すべてのブランドの背景には、そのアイデンティティを形成し、成功に寄与してきた豊かな歴史とユニークな状況が存在するのだ。これら背景の物語は、ブランドの重要な一部であり、ブランドロイヤリティを築き、顧客とつながるための不可欠なツールになっている。知っているつもりでも、背景を知らないブランドは多いのではないだろうか?

 かつてインドでは、安全な飲料水を飲める村が10%しかなかったのに対し、90%の村ではコカ・コーラが飲めたという統計があった。1892年に設立された米国のコカ・コーラ社は、今日、世界中で最も成功している清涼飲料のサプライヤーの1つであることは間違いない。コカ・コーラは、多くの消費者が愛飲しているブランドであり、消費者全体で1日に平均18億本以上を飲んでいる。しかし、この飲み物が実は偶然に発明されたものだと知っているだろうか?

 それは、アメリカ南北戦争で南軍大佐のジョン・ペンバートン(John Pemberton)が負傷したことで始まった。ペンバートンは、モルヒネ(鎮痛剤)の代用品を探すために、コカの葉とコーラの実を組み合わせて鎮痛剤を作ることに取り組んだ。その作業中に彼の助手が誤ってコカの葉とコーラの実を炭酸水に混ぜてしまった。これが、1886年のコカ・コーラの誕生である。そして、米国のジョージア州アトランタにあるジェイコブズファーマシーでコカ・コーラが初めて販売された。価格は1杯5セントであった。

 ブランドをより魅力的にするため、ペンバートンのパートナーで経理係のフランク・M・ロビンソンは、2つのCを使った造語を作り、独特の字体でコカ・コーラ(Coca Cola)と名付けた。手描きされたコカ・コーラの広告が公の場にブランドとして掲示された。だが1888年には、1日平均9杯しか売れなかったという。

 コカ・コーラが発売されて間もなく、ペンバートンは病に倒れ、会社はほぼ破産状態になってしまった。ペンバートンはコカ・コーラの権利を何人かに売り始め、1888年の亡くなる直前に残りの権利を実業家で後のザ・コーラ・カンパニーの創業者であるエイサ・キャンドラーに譲ることにした。キャンドラーは、コカ・コーラを完全に支配するために権利を買い足していった。

 商才に長けたキャンドラーは、1892年にコカ・コーラ・ブランドの広告宣伝のために11,000ドルの予算を取り、コカ・コーラのロゴをカレンダーや時計、飾りつぼ、扇子などに付けて宣伝した。薬剤師たちは、コカ・コーラの名前が入った器具を販売した。薬局が正しく調合し、店頭でブランドを宣伝しているかどうかを確認するために、コカ・コーラの営業マンたちは多くの州に派遣された。当時の薬局は、コカ・コーラのシロップを使ってコカ・コーラを作っていた。キャンドラーは、コカ・コーラの販売に消極的な薬剤師や薬局に対して無料クーポンを配り、コカ・コーラのシロップの樽を無料で提供した。その結果、売上げが伸びた薬剤師たちは、シロップを常時買いに来てくれるようになった。さらに、コカ・コーラの顔となった女優で歌手のヒルダ・クラークと、史上初となる有名人のお墨付き契約(celebrity endorsements)を締結した。このような戦略を進めたキャンドラーは1895年に全米でコカ・コーラを販売すると発表した。 

 コカ・コーラの販売量が100万ガロンに達したのは1904年。コカ・コーラの広告予算は初めて100,000ドルを突破した。この強力なマーケティングで、コカ・コーラはカナダ、キューバ、パナマへと販売エリアを広げ、ボトリング事業を開始した。

 コカ・コーラの成功により、他の多くの清涼飲料水メーカーは、コカ・コーラのボトルやフォントを少し変えて模倣するようになった。それに対してコカ・コーラは、「暗闇で触ったときにもそれがコカ・コーラのボトルとわかる」ボトルをデザインするコンペを開催した。ルート・グラス・カンパニーのアレキサンダー・サミュエルソンがデザインした個性的な輪郭のボトルがコンペを勝ち抜き、そのデザインは1916年11月16日に特許登録された。ルート・グラス・カンパニーは、コカ・コーラ社と共同で全米に6つのガラス会社を持ち、ボトリングを行う契約を結んだ。また、1977年にコカ・コーラのボトルは、そのユニークなパッケージにより商標として米国特許庁(US Patent Office)に登録された。

 コカ・コーラは、帝国を拡大するために、新しいブランド戦略をどんどん打ち出していった。そんな中、コカ・コーラが行ったユニークで画期的なブランディングキャンペーンのひとつが、「赤いサンタクロース」の広告だ。サンタクロースと聞いて、誰もが最初に思い浮かべるのは、赤い服を着て、白いヒゲを生やした、幸せそうでふくよかな男性だろう。ところが、なんと初代サンタクロースは赤い服を着ていなかった。コカ・コーラは、サンタクロースは「赤い服のサンタ」に大きな役割を果たした。コカ・コーラがクリスマスのキャンペーンを始めたのは1931年のことで、イラストレーターのハッドン・サンドブロムにブランドの広告を依頼し、サンドブロムは、クレメント・ムーアの詩「サンタクロースがやってきた」からインスピレーションを得て、今日誰もが知っている陽気なバージョンの赤い服を着たサンタクロースを創作した。

 1985年には、コカ・コーラがスペースシャトル「チャレンジャー」の宇宙飛行士によって、宇宙で飲まれた最初のソフトドリンクとして歴史を刻んだ。

 コカ・コーラが世界で隆盛を極める中、インドで市場を獲得するまでに50年以上の歳月を要した。1977年、インドで地元ブランドへの支援運動が盛んになり、インドのコカ・コーラは、「インドを出ていくか、インドで製造するコカ・コーラのレシピを公にするか」という究極の選択に迫られた。1977年にインドを離れたコカ・コーラは1993年にインドに再び戻ってくる。その頃のインドには自由化の波が押し寄せており、コカ・コーラは、インドで製造されていた4種類の人気ソーダを4,000万ドルで買収した。この買収以来、コカ・コーラがインド市場で後退することはなかった。

 消費者は毎日18億本以上のボトル缶を飲んでいますが、コカ・コーラがブランドキャンペーンを行う際に考慮している重要な要素は何だろうか?

 まず、ブランドに対する有名人の推薦を得て、10〜30代の年齢層をターゲットに、さらに、大学や専門学校でキャンペーンを実施してブランドをアピールしている。また、コカ・コーラは、ダイエットを意識する高齢者にはダイエットコークを勧め、人々の収入に応じてさまざまなパッケージやサイズを提供し、学生、低所得者層、中産階級をターゲットにするため地理的なロケーションを考慮している。さらに、文化の違いを考慮して、アジア市場向けには甘いものが好きな人々のために甘いバージョンも導入した。

 2,650億ドルという驚異的な純資産と独自のボトルを持つコカ・コーラは、今日の世界経済に著しい貢献をしている。日々、多角化と買収を繰り返しながら、コカ・コーラは無慈悲で破壊的な力を持つジャガーノート(juggernaut:アメリカのコミックブックに登場する架空のキャラクター)であることを証明してきた。